2014年9月法話

 九月に入りました。雨の多い蒸し暑い日も少なくなり、朝夕はめっきり秋の気配が感じられます。今年のお盆は私らにとっては最良の日が続きました。少し雨もありましたが、お墓参りは適度に風もあり汗も思ったほどではありませんでした。墓経も傘をつけて行うのですが、弟子はたいしたことはないと傘無しで臨んだのですが案の定日焼けで頭皮が剥けてしまっていました。施食会も過ごしやすく、参列者も心地よさそうでした。本年は新盆の方のご供養一座を設けました。少しずつ法要参列の方が減りつつあったので、新盆の仏様の関係者が参列くださり、堂内はほぼ一杯になりました。やはり初めてのお盆を迎える人々は思いも強く、生々しい感情もあり、是非ともご供養をしたいと思っている方が多かったようです。来年以降ももっと感動の強い法要に出来たらと思っております。

また、日本全国強い雨により被害が出ています。特に広島における土砂崩れでの70人ほどの尊い命が奪われた件は、心を痛めます。土地特有の性質によるものとはいえ、適度を超える雨はどうなっているのでしょうか。やはりどこかに異常になりうる要素があるのでしょう。それが私たち人類のもたらすものであるのか、地球の宇宙の何かであるのか。もし私たちが影響しているのでしたら、少しでも長くこの平和な安穏な生活が出来ている環境を大事にしなければと思います。人一人の力は微々たるものでしょうが、何か一つ事を起こすことで多くの人が行えばそこに大きな力が生じます。何が出来るのかお互い考えたいものです。

出来秋ももう目の前、収穫を前にして願うは災害の無い事、台風の来ないこと。穂も日に日に重さを増し、お辞儀も丁寧になりつつあります。畑も秋物が収穫できるようになりつつありますが、我が家の畑は秋物は植え付け皆無です。春からものが残り少なくなっています。というのも作付けした直後は草取りも出来たのですが、忙しさになまけ一日一日過ぎますと草はあっという間に作物より大きい背に、気がついたときは後の祭りです。この9月で三回忌の祖母がいた頃の畑はきれいなものでした。良くやっていたものだなあと感心させられます。母にとっては「なにをいまさら」とあの世で言っていることでしょう。

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師の書に「握沙為寶」の一行幅があります。桐箱に入りここしばらく開けていなかったのですが、表具も立派で堂々とした作です。草書で少し太めの筆で、大きく動かし、小細工無しで、師の作としてはやや異質な感じです。結体も丸みを帯び、暖かさを感じさせてくれます。それにしても「沙を握り宝とす」の文ですが、沙が宝になりうるのか。何も沙だけではなく、ちょっとしたきっかけが大きな結果を導いてくれると言うことでしょうか。そのちょっとした事に気づけるかどうか、そしてそこを大事に実行、継続していけるかが問われる事になるのでしょう。あれもこれもとやるのもいいですが、その一つのきっかけで一事をなすのも有りかな!