2011年11月法話

秋もあっという間に過ぎ去ってしまいそうです。紅葉が盛りです。当寺も枝落としの後に伸びた欅の葉と、最後は銀杏の黄葉に毎日毎日落ち葉掃きです。

遅くなった農作業も一段落し、農業の県内祭典、種苗交換会が始まっています。この会がやってくるとお天気も秋から冬へ急展開です。いつもみぞれ交じりの寒い日が続くのですが、今年は少し落ち着いているようです。

一般の方も原発事故以来、放射能の有る無しが気になり、一つ一つ線量を調べてみなければならなくなったようです。遠い本県では影響が少ないようですが、ちいさな子供を抱えているお家では将来を心配して大変です。心落ち着けて生活できる日がいつ来るのか皆目見当もつかないようで、残念に思います。

秋は芸術の秋ともいわれます。秋田では秋田書道展があります。県内最大の書展で、小学生から一般まで、多くの出品で賑わいます。私も長年筆を握らせていただいておりますが、数年前より審査の方にたずさわっており、いささかの責任を感じておるところです。私の社中からも出品者があり、本年は好成績でした。長年の努力がようやく実を結んできたような気がします。弟子の上達は決して師の指導の腕ではないでしょう。

あるお経の中には、師が弟子に教えたことで弟子が後で実行するかしないか、また実を結ぶか結ばないかは、師の責任にあらずという様な意味の言葉があります。師は師として言うべきことを言い、書くときは書いて見せ、心構えを聞いてもらい、批評をし、直しを入れ、わがままなものです。それを弟子の人がいかに自分の作品に役立てるか、それはひとえに弟子の一人一人の努力、感性によるところで、師は何とも力を貸せる所はないようです。多くのものをつかんでくれた弟子は、長くやっているうちにいつか、それがひょこっと作品に顔を出してきます。その時がチャンス、作品の転換ができるときです。それを逃がさず捕まえてくれるとありがたいのです。師は弟子の何倍も書き込んでこそ、出してくる言葉、線の強さ、バランス等が出来るのです。弟子を持つと言うことは師自身の大きな勉強をさせていただいていると思っています。

人生もその通り、何事にも今書かせていただいたところがあろうかと思います。師弟はかくあるべきと思います。

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さて、お寺の話の続きです。先代が築いてきた境内、建物も一応一段落を迎えました。本堂の増築、庫裡、位牌堂と整い、さて落慶法要をどうしようかと言うことになってきます。建設委員会を通してのご寄付の中にはこの落慶法要の費用も若干あったのでしょうが、とても足りなかったようで、落慶と併せて晋山結制も行うこととし、新たな寄付を募り、倫勝寺としては久しぶりの大行事を計画いたしました。晋山(新しい住職がお寺に入る式)と結制(弟子の修行期間を承けての出世行事)と、さらに先々代(祖父)の退董(引退式)と落慶と、盛りだくさんです。お寺の行事としては最大のもので、おつきあいの比較的少ない私のお寺でも70~80人が集まった記憶があります。

式は前日の夕方から当日朝早くから昼過ぎまでと、次々と法要が営まれます。見所としては新住職(先代)のお寺に入るときの行列、さらに須弥壇上での問答など、さらに首座(私)の禅問答を交わす場面でしょうか。印象にあるのは先々代の感極まった退董の挨拶でした。あの頑固で気丈な毎日から涙は想像できませんでした。50年以上の住職生活が一気によみがえったのでしょう。昭和49年5月のことでした。私は大学2年生でした。