2010年5月法話

年度が変わり1ヶ月が過ぎました。例年の春とは比べようがない寒々とした気候にこの大型連休もうきうきしていられない雰囲気です。私の小さい頃の桜はこの連休が盛りで、母の実家のすぐ近くの能代公園によく花見に出かけたものです。能代公園の花見と言えば、それはそれは人手が多く、出店も賑やかに、ぼんぼりも数多くうきうきしたものです。舞台もかかり、民謡、演歌などで大きな音が盛り上げていました。ヘビ使いも来ていたように思います。そんな能代公園でしたが今も桜は体を大きくし、花も立派についてはいるでしょうが、過去の賑わいからは遠い感じがしてしまいます。今年の桜はその当寺の気候に戻ったが如く、この連休が盛り。年々早くなっていたのが今年の寒さを如実に表しています。花見の浮かれ感も近場ではなく、車社会の今、あちこちに遠出が当たり前のようですが、能代公園にも沢山の方がおいで下さりますように。

我が家の畑もおばあちゃんの運動不足解消と思い私も取り組んでおりますが、時間のなさと体力不足をカバーすべく、小型の農機具を一つ用意しました。お隣さんの機械をあてにすることなく、自分の動けるときに出来るので良いのですが、これでまたお付き合いが一つ減ってしまったなと寂しさもあります。これを埋めるには何があるのだろうか、自治体活動への参加も一つでしょう。何か行事を加えるのも良いでしょう。これから何が出来るのか、考えてみたいと思います。

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さてご法事の仕方です。本尊上供が終わり、引き続き正當の仏様の回忌諷經に移ります。ここでは亡くなられたその人のために読経させていただくことになりますが、読まれるお経は特定されているわけではなく、お釈迦様のお言葉を私が読ませていただくことにより、亡くなられた方にとっては悟後の修となりますが聞き入れて頂き、参列の方々にはお経の力により心の平安、安寧を得ていただければ幸いな時間です。お経の後の回向文を載せたいと思います。

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この上なく清浄なる法身、すなわち仏の光は遍くゆきわたり、(一点の曇りもなく)すべて仏ならざるものはなく、おおいなる“やすらぎ”のままに、明らかにあらゆるものを照らし、この世の一切を包摂していますが、かえり来って、ひとたび、世の中をみてみると、そこには、あたかも、夢の中で現れるものに、その実がないごとく、とらわれるべき何ものも実性としてないまま、平等一如でありながら、個々、千差万別の相を呈しているのであります。

恭しく、合掌礼拝して仏、法、僧の三宝の威徳を仰ぎ、あきらかに、みそなわすよう請い願うものであります。

さて、本日は○○の祥月命日で、回忌追善供養の日であります。つつしんで、香、花、燈燭、密湯、菓子、お茶に、めずらしいご馳走をそなえ、仏の説きたもう、お経を読みました。その功徳を回らして、已に仏のさとりの位に入られた“みたま”が、安らぎをえられますよう助けまいらせ、依りてもって報いられています世界が、いよいよ、清らかでありますよう、手向けたいと存じます。

特に、生といい、死といい(及至、迷いと悟りがいりまじり)、水の流れのように、うつりかわる、この世にありながら、あたかも、またと得がたい名珠が、青々とした大海原に輝きを増すように(今は、この世に亡き、あなた<居士・大師>は、りっぱな、あとかたを残され)生死の迷いの中にいながら、生死を超えておられます。

そして(苦しみの河をこえ)涅槃の岸にいまして、あたかも、美しい満月が、雲ひとつない天空に光り輝くように(みたまも、安らけく輝くことであります。)
(のこすことなく、もらすことなく)あまねく、すべての人々を導いて、同じように、仏法の目覚めの路を登るよう、切に願うものであります。

「曹洞宗回向文講義」より