2010年6月法話
新緑まぶしい好時節となりました。この時期一番過ごしやすいように思います。朝早くから様々な鳥の声がにぎやかです。キジ、山鳥、サギ、ムクドリ、キツツキ、鳩、まだまだいることでしょう。川辺にはカワセミもいます。そしてそろそろカッコウがやってきました。カッコウの声を聴くと夏近しと感じてしまいます。そして畑に豆を植える頃とされています。少し先取りしてカッコウより早く種まきをしてしまいました。気をつけないと植えた次の朝に鳩に全部食べられてしまいます。鳥たちもよく見ているようです。自然界を甘く見てはいけません。汗を出してのいたちごっこも、腹を立てなければ幸せの証なのでしょう。
沖縄の人たちにとって、幸せが来る期待が裏切られたようでがっかりしておられることでしょう。政治的・軍事的なことはあまりにも解らずにおるので恥ずかしいことですが、一国の長である首相の言葉はやはり重く感じられます。誰しも公約と言われればそのまま現実となるのを夢見るのが当たり前、だんだんと後退し責任のない言葉になりつつあります。宗教家は理想を語れ、政治家は現実を歩め、という言葉を言った人がいたように思っておりますが、政治家の理想、夢に踊らされた国民はいったい何を信じてこれから一票を入れたらいいのでしょう。
誰しも夢を追い求めての現実ではありますが、それは夢として現実にならなくとも、という思いがどこかにあることは自身で認め、その上での追求をしていることでしょう。近未来をこのようなものにしたいという思いが、現実の歩みにつながります。その近未来がとてつもなく大きなもの、あるいは到底現実的で無いなものであったら、いまここで考えに考えて然るべき行動を起こすべきです。実らない将來を求めるほどつらく寂しいものはないはずです。今ここでの決断も大事なものになるでしょう。首相もとてつもない夢に現実の一つ一つを突きつけられ、現実になる見通しが無いと思ったときに、自分の夢から覚めるべきだったのでしょう。人の意見を聞き入れる耳も持つべきです。
政治家に求められる決断力、判断力は相当のプレッシャーでしょうが、今を生きている国民は少なからずプレッシャーの中でもがいています。そのプレッシャーを障害とすることが無きよう、気持ちをコントロールし、皆さんも時にはお寺の門をくぐることを一つの支えとしていただければ幸いです。
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さて供養の第3段は総回向と言われる、年回忌の方以外にもすべての者に対してのお勤めとなります。前回同様回向文を引用し、その意義を確かめたいと思います。
『自らはわたらなくとも、すべての人々を先ずさきに、さとりの岸にわたそうと願い続ける菩薩という聖を、きよく・うるわしい月に、たとえようものなら、澄み切った大空に悠々と遊ぶがごとく、何のさまたげも、こだわりもありはいたしません。そのように、この世に生きるたれも、かれもが、浄らかな心をもちつづけるとき、そのきよい心を水にたとえようものなら、そのような美しい心ねの水にこそ、またとえがたい仏の“さとり”の影も宿るというものであります。
うやうやしく仏法僧の三宝の威徳を仰ぎ、合掌礼拝して、三宝があきらかに、みそなわすよう請うものであります。
さて、ただいま、仏の説き給う教典を読誦いたしましたが、そのちからをめぐらして、何代にもわたる、この家の先祖や亡き方々のみたま、もっとも親しい六親等に及ぶ親類縁者、七代もさかのぼっての直系父母、いやそればかりではなく、これまでに因縁の有ったものも、縁もユカリもない人々で、あらゆる世界にいます、よろずのみたまや、世界中にいまして霊識ある方々に、手向けるものであります。
切にのぞむことは、始のないほど久しく、ねづよい迷いや苦しみの根源となる無智の心が、いま・ここで・すぐに消えてしまい、そして、全くこだわりとさまたげのない、正しい理にめざめた、この上ない智慧が直ちに眼のあたりに開かれて、いそぎ、生とか滅とか、分けへだてる迷いを離れたみちを、明らかにさとり、はやく、仏の位に達し、その“アカシ”をえますようにと望むものであります。』