2012年2月法話
平成24年もはや一ヶ月が過ぎてしまいました。天候は昨年12月中旬よりの雪が相変わらず続き、寒入り、大寒と益々多くなっております。昨年も内陸地方では大雪で果樹に大きな被害があり、なんとか今年は勘弁して欲しいと願っていたのですが、今年も雪との戦いが繰り広げられております。立春まであと2日、名ばかりの春とはわかっていても、春の訪れを待つ身にはなんとなく明るい響きです。
次男の弟子が行っている永平寺も雪の多い所、毎日の雪作務に追われていることでしょう。しかし次男は手の怪我でギブスを付けての修行生活、他の人達の頑張りを見ていながら自分のできないことに苛立っているのではないかと思っています。修行生活は、自分一人ではどうにもなりません。皆心を一つにして、行一如の修行です。出来ることを精一杯して、出来無いことをしていただく有り難さを味わってみるのも大きな修行かもしれません。
周りの皆様、暖かく見守って下さりありがとうございます。よく修行は大変でしょうと声をかけてくださる方もいらっしゃいます。しかし何の仕事も修行です。私が朝寒い本堂での30分の読経、雪が降った日には雪かき、暖かい朝の食事をいただく、一日の疲れを取るための就寝、全て修行です。毎日毎日の繰り返しですが、それが当たり前です。会社勤めの人も、決まった時間までの出勤、身の回りを片付けての仕事、上司の人との付き合い、同僚との語らい、全て修行であり、毎日の繰り返しです。それが会社のためでもあり、自分のためでもあるのです。生活はそんな毎日の繰り返しです。劇的な変化は人生に数度、それもまた当たり前に受け止めていかねばならないのです。心を平安に保って。
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さて、お寺の古い話も私の知る所が少なくなり、私の小さい頃の思い出みたいなものを書いてみます。
祖父(二十九世)は何にでも興味を示し、良いといったものは何でも手にかけた人だったようです。時代が時代でしたが、昭和三十年代、そろそろ欲しい物も手にできる時が来たのでしょう。行商の人がよく顔を出していました。お魚屋さんは週に1,2度リヤカーに木箱を積んできてくれていたようです。ごく当たり前の当時の風景でした。
更に自転車で木箱を荷台に載せてくる人もいました。祖父も来客を大事にし、話好きな人には長い間付き合っていました。その方はどこから来るのか、息を切らしお寺に着くなり(当時は大火のあとの仮住まい)、縁側というか玄関の板の間に寝そべり、体を休めていました。しばらくして祖父が顔を出し、話し始めると、商売の話なのかどうか、しばらく時間がたってしまいます。その最後にかならず荷台の木箱を下ろして置いていくのでした。
つい先ごろ、近所に越してきたという人が訪ねてこられ、その当時の話になりまして、「私の父です」とのこと。ちょっと前に他界されたとのことですが、実は八郎潟の人で、距離にして30kmくらいあるのですが、ここまで自転車できていたのでした。寝そべってしまうはずです。八郎潟に朝に網を入れて取った小魚(結構大きい魚もいたようでしたが)でした。ほとんどフナだったと思いますが、我々はフナじゃっこと言っていました。それを祖父は話と共にすべて買い取っていたのでした。拒みきれなかったということも、魚好きだったこともあるでしょう。大人数で暮らしていて贅沢できずにいましたが、そのフナじゃっこのお陰で父はじめおじさん達は大きくしていただいたと口々に話していたことを思い出します。祖母や母などはそのフナじゃっこを料理するのが大変だったと言っていました。そんな八郎潟のフナじゃっこを売る人も、今は見当たらなくなりました。