2011年6月法話
六月に入り日本は早や、梅雨の季節となりました。ホームページ更新が遅くなってしまいました。先月末より大本山永平寺参拝を行っており、今参拝を思い起こし書かせてもらいます。
檀徒20名での参拝でした。三月の大震災の影響でキャンセルした方も数名おり少人数になりました。実母を津波で亡くされた方もおり、旅行の気分になれないという人も。『永平寺でお母さんの供養をしたら』とも勧めてみましたが難しかった様です。
そんな中、永平寺参拝の大看板のもと、20名はハツラツと全行程を済まされました。永平寺では小雨もありましたが、鳴り止まぬ水の流れがいつものようにあり〝あぁ永平寺だ〟との感を深くした次第です。到着しての拝観、夕食、夜坐、法話、映画と息つく暇もなく修行を続けます。朝は三時半起床とはいえ、一時間前から起き出し身繕い、その後朝のご挨拶、説法、供養法要、朝課と三時間の座りづめ。なかなか大変な時間ですが、少々の寒さにもめげず座り通す事が出来ました。これが永平寺の力です。さすが大本山です。これが何の緊張感もなく、だらだらとしたものなら、とてもとても。法要一つ一つにもリズムと見せ場が有り時間が経つのも忘れさせてくれます。道元禅師の教えの素晴らしいことを改めて感動させられます。
参拝後は私の勝手な行程作りで広島、岡山方面の旅の二日間でした。梅雨とはいえ、雨を避け避け歩かせて頂いたのは参加者全員の思いが強かったからでしょうか。原爆ドーム記念館のハッとするような衝撃、宮島、錦帯橋、後楽園、倉敷の美景観との対照に圧倒させられました。また一つ、檀徒の皆様と気持ちを強く結べた思いが致します。
さて、震災の話も多々ありますが、昔の話を続けさせていただきます。
私が幼少期、小学生の頃の遊び場は家の周囲、特に焼け跡にあった本堂、位牌堂のコンクリートの土台でした。土台の上を走り回り周辺の山菜、キノコを採ったりと、田舎の生活そのものでした。木の実を取るため木に登るのですが、私は高い所が嫌いで、姉たちによく馬鹿にされたものでした。しかし嫌いなものは嫌いで、高い所と狭い所は大嫌いでした。だから、かくれんぼも嫌いで押し入れに隠れようものなら、すぐ自分で出てきてしまい、また土管の中に入り込んだらそのまま先に出てしまったりで、すぐ鬼の番だった気がします。地区の同年代の友達も多く、毎日毎日よく外で遊んでいたなと思います。もちろん家の中にはそんな遊び道具があろうはずもありませんでした。そんな遊び場が焼け跡と知ったのはかなり大きくなってからでした。その土台がなくなり復興が始まったのは火災後十年くらい経ってからでしょうか。ご寄付が始まったのは五年後からでしょうか、思うように集まりません。時代背景もあったでしょうが、やはり火災という原因が大きかったのは否めません。先々代も五十年在住のうち最も大きな挫折だった事でしょう。しかし信用が一時でも失墜してしまうと取り戻すのに大変な時間と労力がかかるものです。それも信仰を司るが故の事なのでしょう。覆水盆に返らずとは言いますが何とか新しい信仰の場をと言う思いは大きかったことでしょう。