2012年7月法話

今年も早半年が過ぎてしまいました。梅雨の時節です。九州地方では大雨の禍、当秋田は七月中旬から下旬あたりが雨となるのでしょうか。大雨の後に真夏となるのでしょうが、その真夏が今現れ、真夏の格好で過ごしているこの頃です。まったく暑すぎたり寒すぎたり、自然に馴染めるにも程があります。

 今年もようやくサツキの花後の手入れが終わりました。例年の作業に加え、今年は本格的な根洗い植え替えを半数近くやりました。だいぶ長い間根洗いをしていないせいか、樹勢が落ちてきたのです。根洗いは大変な作業なので、高圧洗浄機のお世話になりました。便利なものがあるもので、ずぶ濡れになりながらですが、手作業の数倍の早さ、しかし高圧すぎて根近くの幹の皮までむしり取ってしまう始末。来年は樹勢がどうなるのやら、楽しみやら心配やらです。

 鉢物はやはり根をしっかり管理しないといけません。人間も根っこの所をしっかり押さえておれば大丈夫ということでしょう。その人その人により根っこが何かは違うでしょうが、大きな根っこになりうるのは、心のよりどころ、宗教を持っているかということでしょう。小さい頃から慣れ親しんだ、手を合わせること等、心安まる時間を1日のうちに少しでも持てれば、1日過ごす根っこになります。1日過ごしたら夜感謝に眠ることが出来るでしょう。

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 さて、師、黙窓の書に『不老』という作品があります。不老とは誰でも思うことですが、師も70を超えてからの作品と思います。老いてきたなと感じたときに、いやだなあと思うことで、年を取りたくないものだと感じたのでしょう。しかしその作品には、不老の後に『敢不言不死』敢えて不死と言わず、の五字がついています。出典を探してみましたがよく分かりません。師の墨場ノートをめくってみるとありました。不老の所に『長寿不老、碑龕近墨』とあり、その後ろに前述の五字、そこに(黙窓付言)とありました。師が自分で付け加えたようです。老いることは生きている現実ではどうしようもないことで、喜ばしいことではないのだが、だからといって誰でも到る死はまぬがれない事実なのだから、死にたくないとは言わない、という死の思いだったのでしょう。不老、敢えて不死とは言わず、だんだんと老いに向かいつつある私も、一つ一つの作業に時間がかかり、次の仕事に取りかかるのに時間がかかるようになってきました。老いのしるしとあきらめております。師のその作品は、一つではありません。楷書、篆書で、幾度となく思いを巡らせた時があったのでしょう。(病気の時かな?)

 東能代より出る五能線に乗り青森に向かうと、不老不死温泉があります。夕日を眺めながら入る、日本海の波の音のするよい温泉です。温泉の効果でその日は正に不老不死、ひととき人生の疲れを癒して下さい。しかし老、死は否応なく訪れます。老と静かに寄り添い、死を恐れず向かうことが出来れば最高です。