2009年10月法話

秋も盛りとなり、稲刈りも最盛期です。例年並みということで一安心しておりますが、心を込めての一年に報いることができる作業であればいいのですが、話をお聞きするとどうも気の済むようなものではないようです。一概にお金で片付けることはできないかも知れませんが、労力経費と対峙するのは手取りのお金になります。それを満足させてくれるのは政治でしょうか。または我々国民の食文化の昔への回帰でしょうか。

先月は政治に大きな変化が見られました。民主党政権の誕生ですが、期待半分、不安半分ということが皆の思いではないでしょうか。未来はどのような世界でしょうか。より良い暮らしを期待しましょう。何をもってより良いとするのか。一方をたてれば一方が沈むことがあろうかと思います。何を育て何を切り捨てるのか。国民こぞって良い方向に向かうことを期待いたしましょう。

9月12日、県主催の「邦楽への誘い」という演奏会がありました。邦楽器と仏教声明の世界とでもいったらいいでしょうか。我らが尺八奏者、秋田市天王の自性院様のプロデュースで、我々僧侶も梅花流詠讃歌と声明を披露いたしました。

烏合衆という会で何度か行った「心のハーモニー」の延長のような気持ちでもありましたが、新しく若い僧侶達(当寺の副住職も参加)を加えての大勢での舞台に、新たな気持ちで臨ませていただきました。邦楽のあでやかさと共に声明の厳かな同韻に、おいで下さった満員の観客も感動してくださったようです。日本人の心の奥底に眠るものを揺り動かしたのでしょうか。誰しも持っていて気づかないものに気づく、良い機会になったのかも知れません。今後この試みがどのようになっていくのかは未知数ですが、もっと違った形でも日本文化に寄与するものがあるのではと考えさせられます。

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さて供養物の話ですが、仏、お祖師様、各家庭ではご先祖様に対して様々なものをお供えしています。いわゆる飲食(おんじき)供養です。ご飯やお汁、漬け物、煮物をはじめ、お菓子、果物などです。

お釈迦様在世の時代より托鉢が行われ、その供養物で生活を維持しておりました。その日一日の食べ物を布施していただき、一日の糧にしていたのです。現在托鉢でいただくときの供養物はお金の場合が多く、それは生活を保つために、また必要とする人々へのご寄付にと使われますが、本来はこの飲食供養であります。

人間はのどが渇き、空腹になるといらぬ妄想にとりつかれてしまいます。この妄想雑念を取るためには、心を静めて安定した状態に置く必要があります。適度の食事と飲み物が、その禅定に入ることに導いてくれます。そのため、飲食供養は禅定行と同じ供養があるといわれます。我々もこの飲食により、体を保ち心を安定にしていることができます。この食への感謝の意味を込めて供えることがまた功徳を積むことになります。自分が食する前に仏壇にお供えする、心を込めて、手を加え、いわゆる精進を重ねたものをお供えするということで、精進料理なる言葉もあります。お供えしたものは、仏様よりの授かり物として有難く皆でいただくようにしましょう。